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日記

 先日車を電柱にぶつけて、助手席側のサイドミラーが大破した。完全な自爆だった。 

 かろうじて対人事故ではなかったこと、対象が破損するようなぶつかり方をしていなかったこと、車体の損傷はなかったことが不幸中の幸いだ。壊れたのが自車のミラーだけでマジでよかった。

 車を降りて状態を確認したら、ミラーの表面ボディ部分と鏡部分がまるっと全部剥がれ落ちており、配線が剥き出しになっていた。ちょっと笑ってしまった。でも笑っている場合ではない。

 お世話になっているディーラーさんに連絡すると、ミラーが無いままだと整備不良と見做される為運転してはいけないとのこと。ただちにレッカー車を呼ぶことになった。さらにこのとき代車の手配ができず、ディーラーさんにレンタカー会社を紹介してもらうことになった。

 この時点でディーラー・サポートセンター・レッカー会社・レンタカー会社・保険会社からひっきりなしに着信が来て、話をしまくった。ただでさえ混乱しているため、既にどこの会社と電話しているのかわからなくなっていた。普通にしんどい。いや自分が悪いからこんなこと抜かしちゃダメなんだけど。

 ここまできてやっと私は「事故」を起こしてしまったんだと気付いた。こういう認識の甘さが人としてダメなんだ…本当に…。

 

 そんなわけで一通り事故後の処理を終え、一息ついたのも束の間、翌日レッカー会社から電話が来た。

「運搬中にお客様のお車を傷付けてしまい…」

 聞くと、橋下道路のトンネル状になっているところで私の車のルーフ部分を擦ったそうだ。立て続けにディーラーから連絡があり、ルーフをまるまる取り替えるため修理期間が延びるとのこと。5月の連休は工場が動かないので、新規パーツが用意できないらしい。修理費は勿論レッカー会社のほうで持ってくれるんだろうが、その修理期間が延びる分レンタカー使う日数も増えるんだが…

 

 そうか…そうか…。でも事の発端としては私が全部悪いんだよな…。私が自爆してミラーなんて壊すから…いやそもそも私が不注意だから…私が…私が…。

 

 車を傷付けたとき、修理に費用や日数がかかることは結構どうでもよいと思っていて(よくはないが自業自得なので諦めがつく)、では何に最もショックを受けるかというと、こういった不注意でいつか本当に人を殺めてしまうのでは無いかと不安感に苛まれることである。あんまり運転に向いていないタチだということは自覚しているものの、今の環境を考えると車がない生活はまず無理だ。職場に行けない。コンビニにも駅にも行けない。生きていくことができない。とか言い聞かせて、また今日も運転している。

 運転って怖いな。それでもって私みたいな人間が多分ごまんと存在して、運転しているであろうことも怖い。私自身反省も後悔もしているけど、不注意癖がそう簡単に改善されるだろうか…。いやされるだろうかじゃなく、しないといけないんだよな。以後本当に気を付けます。戒め日記でした。

(↓ 大破したサイドミラー)

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 初めて視聴した蘭たんの個人動画はどうぶつの森で、案の定私は「初見バイバイ」されたクチであった。

 第一印象として、蘭たんは変人だと思った。明確にそう捉えたのは、ナポリの男たちの夜会初回の配信時である。

 夜会には、ゆとり組の一人であるしんすけさんがゲストとして招かれていた。しんすけさんは、ゲーム実況ジャンルの創世記から蘭たんと絶妙な距離感を保ちつつ(その関係性を象徴するような動画として「見る男」シリーズがある。蘭たんの実況動画をさらにしんすけさんが実況するという、当時としても非常に奇抜な内容となっている)活動を続けてきた、グループ実況の礎を築いた人物だ。

 その夜会の場で、蘭たんは「好きな実況者なんていない。みんな俺の真似してるわ、って思っちゃうから。」と、いけしゃあしゃあと言ってのけた。別におかしな話ではないのかもしれない。何故なら彼はゲーム実況の祖、「ゲーム実況」という言葉を使用した最初の人だと言われているからである(諸説あるらしいが)。

 しかしとにかく彼からは、歯に衣着せぬ発言といい物怖じしない態度といい、どこか満ちた自信が感じられた。だから変わり者に見えたのだろう、と思う。蘭たんは一つのエンタメコンテンツを打ち立てた人間だ。0から1を生み出せる人間は、きっと人並みから逸脱した感受性を持ち合わせているのだろうと。

 

 けれど、ナポリのチャンネル配信を視聴するようになってから、徐々にその印象は変化していった。蘭たんは私が想像したような自信家でもワンマンでもなかったのだ。

 初めに大きく覆された印象は、蘭たんの他人への着眼点だ。彼を見続けていると、メンバー3人と視聴者に非常によく意識を向けているな、と感じるようになった。常々その場面を把握することに長けている。要は空気が読めるというやつだ。

 チャンネル開設前の配信を聴いていたときから、話し上手な印象はあった。「あんね、」から口を開き、視聴者を引き込む話を押し付けがましくなく繰り広げる。またその分聞き上手でもあった。小気味良い相槌とリアクションを返しながら、時には彼特有の一癖ある価値観で話に切り込んでいく。それは初期のぎこちないナポリを盛り上げるため、そして現在では十分に仲良くなったナポリをより円滑に動かすための、人を見ることに優れた蘭たんの立ち回りなのだろう。

 だから自信家のように見えていた一面も、僅か10代半ばでネット活動を始めた彼なりの処世術だったのかもしれない。(実際配信にて本人は「実況を始めた当時は子どもだと思われたくなかった」という趣旨の発言をしている)。最近では、図太いというよりもむしろ繊細なタイプなのだろうと思う。ゲーム内に限らず、人の関係性や感情の機微をよく読み取るからだ。あの明け透けにも思える発言の数々は、その上に成り立っているように見える。

 そんな彼だからこそ、グループ全体のプロデュースも上手い。毎年末には蘭たんが他3人の曲を用意し歌わせる企画が行われる。視聴者からこう見られているだろう、という目線を確実に取り入れた曲作りは、蘭たんの客観性の強さがよく窺える。彼は指揮を取らせたら本当に器用にこなす。私は、ナポリの男たちというグループは蘭たんワントップ型のフォーメーションだなあと感じることがしばしばある。彼がグループの方針を固め、他3人がそれを上手く遂行し支えている。ナポリをカレーに例えるなら、蘭たんはカレー粉だ。彼らがシチューでもなく、肉じゃがでもなく、カレーとなりうる理由こそがきっと蘭たんなのだ。

 

 次いで、蘭たん個人の特徴として挙げられるのが、その実況歴の長さから来る実況スタイルの多様性だ。シリーズを時系列順に追っていくとその遍歴を垣間見ることができる(本人曰く、思春期からゲーム実況を始めた為、実際の人格形成の過程が動画にも影響していただろうとのこと)。

 今よりも比較的アウトローな振る舞いがインターネット上で許容されていた2008年代(当時の蘭たんは高校生)は、彼の自由奔放な面が強く現れていた時期だったろう。そこから近年になるにつれ徐々に、キャラクターに共感する、涙ぐむなど、蘭たんの情緒的な側面が見られるようになってきた。

 さらにここ数年の蘭たんの実況は、主人公と己の人格を切り離しつつ、まるでその場を一緒に過ごしているかのような没入型を取ることが多い。

 個人的に初めてその兆しを見たシーンは、moonシリーズの最終パートだ。蘭たんは、未知の宇宙にひとり飛び立つ主人公に「淋しいね、ランたん。」と声を掛ける。私はこの一言を受けて、彼が今までずっと主人公キャラクター「ランたん」の側にいたことを強く実感するのだ。

 蘭たんの代表作として「FF15」「龍が如く7」など、怒涛の展開や人間ドラマが繰り広げられるシリーズがある。そこでどんなに悲惨な生い立ちや孤独な境遇に置かれたキャラクターが登場しても、蘭たんはまるで彼らに寄り添うかのようにプレイを進める。2020年に投稿されたシリーズ『ゆめにっき』のラストでは、澄んだ空を仰ぎながら主人公に「おつかれ」と言葉を掛け、屋上から飛び降りる少女を見届けた。本来なら凄惨なはずの結末だが、蘭たんの考察やメッセージに、ゆめにっきをプレイしたことのある視聴者もそうでない視聴者も、僅かに救いを得たのではないだろうか。

 蘭たんの実況はリリカルである。視聴者は、ゲームの登場人物の悩みや辛さを自身と重ね合わせ追体験する。そんな中での蘭たんの選択、キャラクターに向ける言葉のひとつひとつが、あたかも画面越しの自分へのもののように思える瞬間がある。きっと誰かはそれにわくわくしたり、誰かは勇気付けられたり、はたまた救われたりするんだろう。私はこれが実況者としての蘭たんの、いちばんに秀でた特別な魅力だと思っている。蘭たんの放つ飾らない言葉は、多くの視聴者の心を動かしている。

 

 2021年の7月28日で、蘭たんは実況14年目を迎える。そして同時に意味するのは、「ゲーム実況」というジャンルそのものも14周年を迎えるということだ。いつか蘭たんの記念日を祝えなくなる時が来たとしても、7月28日は大きな意義を持ち続ける。今やすっかり市民権を得たコンテンツはかつて、蘭たんが作り出した小さな箱庭から始まったのだ。

 彼は凄く偉大なことを成して来たと思うが、最近の活動振りを見ていると、良い意味でそんなことは微塵も感じさせない。とき謙虚に堅実に、けれどいつまでも飄々と憎まれ口を叩き、最古参ながらも精力的に界隈を盛り上げ続けてくれる蘭たんは、本当にキャッチーなクリエイターだ。私は、ゲーム実況の礎を築いたのが彼で良かった、と心から感じている。

 いつかのすぎるさんが会員放送にて言っていた、『良い実況動画を撮っている人物は良い実況者であってほしい』という言葉(岡崎体育さんの楽曲『エクレア』の歌詞になぞらえた発言であった)。それを私は、蘭たんの動画を視聴しているときによく思い出す。蘭たん、貴方はまったくもって良い実況者だなあ、と思いながら。

 

 

日記

 コーヒーを飲もうとしたとき、しばしばドリッパーを使用するのを忘れて、紙フィルターのみで淹れてしまうことがある。

 横からその光景を見ていた母に「本当にガサツな女だよね」と鼻で笑われた。が、私としてはその自覚がない。というのも、そういう場面では大抵ドリッパーの存在を忘れ去っているだけなのである。『コーヒーを淹れる際にドリッパーを使う』という選択肢がまるで出てこない。なんならお湯を注いでいる最中に紙フィルターがズレはじめ、コレ安定しないな…なんかおかしいぞ…と考えている瞬間ですら、頭の中にドリッパーは思い浮かんでいないのだ。

 また私は、物心ついた頃から現在まで、服のボタンを外す際に片手しか使わない。すごく外しづらい構造のボタンがあったとして、1分ほど片手で格闘したのち、ふと「両手を使えばいいのか」と気付く。これについても、いつか母から「横着するな」と怒られたことがある。しかしドリッパーと同様、横着している気は全くない。『両手でボタンを外す』という発想がないのだ。ちなみに、上記を母親に説明してもあまり理解が得られたことはない。

 芋づる式に思い出してきたが、アルバイト時代も似たような思いを抱いたことがある。仕事でミスをしたとき、店長から「業務に慣れてきて気が抜けるのはわかるけど…」というお叱りを受けたのだ。当時の私は、「いやいや、怠慢ではなく、そもそも真面目に取り組んでいながら注意欠陥のケがあるんだが」と腑に落ちなかったのだった。これに関してはもう少しまともに反省してもよかったな、と今となって思っている。

 

 そんなわけで、今回も母親に言い分を聞いてもらおうとしたのだが「サルのほうがまだ頭がいい」と言われてしまった。まあ私もそう思う。大学時代、授業で『サルは木の実や果物を砕く際、土台の石が安定しなさそうだと感じたら取り替えることができる(物事の推測ができる)』という話を聞いた。普通に私より頭良いな。

 ちなみに母親にもその話をしたら「サルは生きる為に考えてる。カラスだって頭を使って、クルミを車に轢かせたりする。あんたは生きる上で生じる障害を取り払おうという工夫や努力をする気がない。結局人生の苦労が足りてないんだ」と言われた。言い争いをしているとだんだんと論点がズレていくのはいつものことである。なので「もっと苦労したら、コーヒードリッパーも忘れずに使えるようになる?」と訊ねたところ、そのとき母は「なる」と断言したのだった。

 大学時代、友達と新宿や池袋で夜通し遊んで、始発の電車で帰路につくのが最高な休日の過ごし方だった。平日、日が昇る頃に駅にいるのはスーツや制服を着た人たちばかりで、私はこれから帰って泥のように眠るんだぞという優越感に浸りながらホームを闊歩した。

 そして、満ち足りた気分になりながら電車内で幕末志士の配信を聴く。楽しい1日の締めくくりは、二人の笑い声で飾った。そのときの幸せな気分はいつまでも覚えていて、きっとこういう気持ちを味わいたくて生きているんだなとさえ思った。

 というように気付けば幕末志士は人生の思い出に結び付いていて、何かにつけふと彼らを思い返したりする。こんな風に毎週二人の配信を聴いて、動画がアップされるのを楽しんで…という日々がいつまでも続くと思っていた。

 

 

 西郷さんが幕末志士の卒業を考えていると発表してから実質の活動休止となるまでには、長い期間を要さなかった。

 皮切りは配信延期謝罪と銘打って行われた4月26日の全体公開放送。西郷さん本人の口から、活動に負担を感じていることが語られた。

 その後すぐに設けられた会員放送枠(坂本さんソロ)では、坂本さんの複雑な心境が視聴者に吐露され、その3日後には今後の活動予定についての報告と、坂本さんの黒歴史人生の振り返り(?)が行われた。

 そして来たる5月2日、YouTubeでの最後のゲーム配信と、これまでの思い出を語る「幕末生」で活動の幕は閉じられたのであった。

 

 こうして、視聴者に与えられた心の準備期間はわずか1週間足らず。衝撃と心配と寂しさと、どうしてこんな結末になってしまうんだという、不条理に対する怒りに近い思いが代わる代わる押し寄せた。

 しかし一点、私が1年間ほど抱いていた違和感の理由もここにきて判明したのだ。

 2019年3月、坂本さんの活動休止宣言に伴って裏方に徹していたMさん(ゲームクリエイター)が代打として放送に出演した。それからというもの徐々にクリエイター陣が登場する回は増えていった。排他的な幕末志士が第三者をこうも交えて配信していることに少々引っ掛かりはあったものの、長年活動していればスタンスは変わるものだろうと思ったし、これ自体は裏話も聞くことができて新鮮だった。

 ところがいっときから西郷さんが放送に出る回数が減少し始めた。というのも、坂本さんソロ配信の回数が増えたのだ。坂本さん+ゲスト(クリエイター陣)という組み合わせもあった。何故だろうと思っている矢先の年末に、坂本さんから「西郷さんが体調不良である」との報告があり、その場はおさめられた。しかし結局はこれも嘘で、西郷さんは既に当時から活動に対してナーバスになっていたという。

 というように私は(認めたくない部分もあったが)彼らが何かをごまかしながら、騙し騙し活動していることに薄々勘付いていた。だからこそ今回の件は現実味を増して重くのしかかったのだ。

 

 最期の配信を迎えるまでは不安だった。終わりへのカウントダウンは怖い。さらに26日の配信を受けて内心、裏切られたような心持ちになっていた。幕末志士は何も変わらない、という身勝手な信念を持っていたからだ。本当にただのエゴなのだが、それを打ち砕かれたような気がしていた。

 Twitterのタイムラインが盛り上がっていたことも、かえって悲しさを煽られた。特別な日になんてしないでほしい。有終の美なんていらないし、高額のスパチャなんて達成しなくていい。何も変わらず、何も終わらずにいてくれればそれで良いのに、と。

 

 そんな中で遂に5月2日は迎えられた。二人は軽口を叩きながら、いつも通りに大笑いしてゲームをする。西郷さんは「活動にプレッシャーはありつつも、ゲームをしている時間は本当に楽しかった」と述べていた。それは本音だったのだろうか、と今となっては思う。ただの一視聴者がおこがましい、厚かましい望みなのだが、どうか本音でありますようにと願わずにいられない。

 そして配信終盤に差し掛かった坂本さんが一言、言い切った。「仕事仲間だったらリタイアさせるよ。でも友達だったら、疲れて動けなくなったらさ、担いで行くべ普通!」と。そのとき、自分の心配が杞憂であったのだと恥じた。二人の方向性がすれ違ったのではと思っていたからだ。

 今回の件で西郷さんは「卒業」というワードを使ったが、坂本さんは「いつかはわからないけど戻ってくるだろう」との見解を述べていたこと、些細な差異だが気に掛かっていた。加えて坂本さんは幕末志士を支えるクリエイター陣に対し雇用主のような立場である。幕末志士の活動がもはや業務のような作業になっていて、その点で西郷さんとズレが生じたのではないかとも考えた。

 けれど坂本さんのこの一言の意義は大きく、視聴者の不安を掻き消すには充分だったと思う。その後流された西郷さんが坂本さんに伝えたいメッセージを吹き込んだという録音音声も、まるで昔話を朗読しているようで笑ってしまった。それを聴いて恥ずかしいと言って大騒ぎする坂本さんと、げらげら笑う西郷さん。この瞬間の二人は、紛れもなくこれまでと変わらない幕末志士そのもので、きっとお互いのことを思い遣っていたんだろう。

 

 実際にはこれまで楽しいことばかりじゃなかったはずだ。辞めた後も、活動関連の後処理、ドワンゴとの清算、お抱えクリエイター陣への善後策、私生活等で対応に追われるのではないか。でも配信の場では一切そんなことは匂わせない。

 これは一番大切な考えとしてここに書くのだが、私は幕末志士を浮世離れした陽気な人達だと思っていた。しかし実態はそんなことはないのだ。きっと彼らは笑ってばかりじゃないし、ゲームばかりでも、常に仲良しでいるわけでもない普通の人達だ。でも二人が凄いのは、視聴者にそう見せ続けられるところじゃないだろうか。いわゆる仲良し営業とか言ったらそれまでかもしれないが、そういう強みを自負して、配信を通したときに楽しさや嬉しさだけを伝えられる技術を確かに持っているのだ。

 幕末志士はやっぱり幕末志士だった。彼らは最後の最後に希望を残して去って行った。もしかしたら結構なけなしだったのかもしれない。けれどそれでも、勝手な理想を抱いていた視聴者に応えてくれた。歩く道こそ別れど、幕末志士が別れることはないと。

 私は彼らを通して自分自身の生き方の理想を見ていたと思う。結婚とか仕事とかを人生の中心に据えなくたって、楽しく生きていけるということを信じたかった。

 だから、こんな時にも私たちに世界が優しいと教えてくれたのが何よりも嬉しかったし、有り難かった。大人になっても友情は素晴らしいものだし、子供みたいにゲームに夢中になっていい。大人だって好きなことをし続けていいし、それを1番幸せだと感じてもいいと。私が信じていたことを信じ通させたまま、幕末志士は舞台から降りて行った。

 

 土曜日の夜、幕末志士チャンネルの配信枠は確保されなくなった。二人の新たな笑い声が聴けることもなくなった。それは相変わらず寂しい。視聴者すら置き去りにする排他的な会話や、負の感情一切を寄せ付けないような笑い声。坂本さんと西郷さんがゲームをして笑い合うとき、あの瞬間、あの空間に悲しいことや辛いことや苦しいことは何にもなかった。それが心地良くて、私は幕末志士のことが大好きだったから。

 

 最後に。余談になるが韓国語で「花道だけを歩こう」という言い回しがある。これは『これからは辛い思いをすることなく、良い出来事だけ起こりますように』という祈りの言葉だ。この「花道」という単語の華やかな印象が、どことなく幕末志士に似合うなあと思っていた。だから幕末志士が道を分かつとも、彼らの進む道が花道でありますようにと願っていたい。

 沢山の元気と笑顔を届けてくれたこと、本当にどれだけ感謝の言葉を述べても言い尽くせない。長年の活動お疲れ様でした。またどこかでお会いしましょう。いつか帰ってくると信じて、その時までさようなら、幕末志士!お元気で。

 

 

至極個人的な見解であるが、坂本さんは普段視聴者の需要をよく汲み取ってくれる一方で、時折我々のことが全く目に入っていないんじゃないかと思わせられる瞬間がある。特に一人での配信時。そしてそれは今月の29日、本日の放送であった。とここまで書いてはっとしたのだが、個人配信の際に前記のような雰囲気になるのではなく、おそらく個人配信を行おうと踏み切るタイミングが「そういうとき」なのだろう。

本日の坂本さんは、視聴者へ西郷さんの現在の体調、今後の見通し等の報告をしてくれていた。しかしまるで遠くを見つめているような、心ここにあらずなような口ぶりであったように思えてしまった(私の先入観もあるだろうが)。けれど坂本さんは誰に何を言われても考えを変えるつもりはなかったのであろう、当然だったのかもしれない。

 

 

幕末志士としての活動を続けることが、二人の負担となること。視聴者としては言い切れない悲しさがこみ上げてくる。

そして坂本さんのこの気持ちは痛い程わかる。私は幕末志士が活動を引退してしまったら酷く落ち込むだろうし、自分を形作っていたものの一部を失ってしまったような思いをするに違いない。けれど仮に引退が彼らの希望的な門出であるとしたなら、祝福せずにはいられない。

だから坂本さんに対してエゴだなんて言えるはずもないのだ。そもそもが彼のエゴで始まったような活動である。本日の全体放送で目についた「身勝手」というコメントを見て、そんなのは今に始まったことではないと感じたりもした。だって、幕末志士は坂本さんの身勝手からスタートしたんだから。納得のいく動画が録れるまで何度も挑戦したがった坂本さん。活動を休止したいと打ち明けた今年の2月末。1000万再生の動画も、公式チャンネルの設立も、毎週の生放送も、今まで活動を続けてくれていることも。言ってしまえば全て坂本さんの身勝手なんじゃないだろうか。エゴの塊な視聴者とエゴの塊な坂本さん、これまでずっと互いの身勝手をぶつけ合って関係が築かれていたのかもしれない。でもだとしたらそれって凄いことだったのだ。

兎にも角にも第一に、坂本さんと西郷さんには健康でいて欲しいものである。何にも取って変えられないものだから。年の瀬に気の毒な思いをされた分、どうか2020年が彼らにとって、彼らの大切な人にとって幸多き年になることを祈りたい。良いお年をお迎えください、幕末志士。来年もまた応援できたなら、と思い続けることが私の幸せで、そしてエゴなのです。

2018年9月18日をもって、幕末志士が10周年を迎える。

 

 

坂本さんが度々放送で名前を出す「為五郎&ゆっきー」の為五郎さんが、以前このようなツイートをしていた。このつぶやきを見たとき、なんだかいたく感動した。その通りだと思った。

思えば10年前のくにおくんの頃から、いや、小学生ラジオの頃から、幕末志士は何も変わっていない。カセットテープの録音ボタンを押し、二人だけの空間で、二人だけにしかわからない話を吹き込み、二人だけが笑っている。そんな彼らをこっそりと覗き見しているとき、自分も坂本さんと西郷さんの古い友達になったような気持ちになるのだ。

幕末志士の10年間はきっと、目まぐるしかったに違いない。配信では、仕事の都合で全く会えない時期があったことや、過去に大ゲンカしたエピソードなども打ち明けている。また10周年直近でも、北海道を大きな地震が襲ったり、ソロ暴露回で言及されたような事案が発生したりしていた。ここのところは、酷く心労の絶えぬ日々を過ごしただろう。

しかしこれまで、何があっても坂本さんは西郷さんと実況することを諦めなかったし、西郷さんは坂本さんに着いていくことを辞めなかった。そんな彼らがいるから一視聴者としての今の自分がいて、また同じように元気付けられた人が沢山存在する。

だから幕末志士には、どの視聴者より、誰よりも一番に、笑っていて欲しいと思う。坂本さんはスマブラ動画の再生数に基づいて『1000万再生の舌を持つ男』と呼ばれていた。それはきっと、1000万回の笑いを生み出してきたことと同義だ。今や、全ての動画を合わせたらもはや1000万では足りない。これから先も二人はずっと、数え切れぬほどの見知らぬ誰かを笑顔にさせてゆくのだろう。だから彼らにはその分、普通の人よりちょっとだけ… いやとびきり多く、幸せになって欲しい。

いつか彼らが実況を引退しても、幕末志士の動画は半永久的にインターネットの海を漂うだろう。そのとき「幕末志士」は「鋭たんとそっしー」とは完全に断絶され、画面の向こう側の住人となる。100年後二人がこの世から去った後も「幕末志士」はゲラゲラ笑いながら生き続けるかもしれない。遠い未来、地球が爆発して何もかも消滅したとしても、彼らが命名した「幕末志士星」が煌びやかに輝き続けることだろう。

そんな風に、幕末志士はこの10年で世界に爪痕を残していった。たかがゲーム実況と思うかもしれないが、私は彼らの人生があらゆる人や物に刻まれていく様子を見てきた。それを見届けられていることが嬉しくてしょうがない。

彼らのお陰で、私の土曜の夜はとても華やかなものになった。毎週決まった楽しみがあることが、こんなにも幸せだとは知らなかった。楽しい時も、悲しい時も、二人の動画や配信を視聴したくなるのだ。時にはくよくよ悩んでいたことがすごくちっぽけに思えてくるし、時にはハッピーな気持ちが2倍にも3倍にもなるような気がしてくる。いつの間にか私の側には、当たり前のように幕末志士の動画があった。

そういえばソロ暴露回を聴いたとき、幕末志士が生きていくには世界が汚れすぎているのだなあと感じたことを思い出す。それでも幕末志士はずっと、友達と一緒にやるゲームの楽しさだけを伝え続けてくれていた。そんな二人の動画を見ると、誰も知らないこの世界の本当の部分は、もしかしたら純粋で優しいのかもしれないと信じてみたくなるのだ。彼らの動画を見るたびに、何度でも。それってなんか、まるで希望みたいじゃないかと思う。

坂本さんに出会えてよかった。西郷さんに出会えてよかった。幕末志士がゲーム実況を始めてくれてよかった。10年もの間活動し続けてくれて本当によかった。いつも元気をくれてありがとう。毎日に笑い声を与えてくれてありがとう。何があっても変わらないものがあると教えてくれてありがとう。これまでも、これからも、ずっと大好きでいさせてください。

改めて幕末志士、10周年本当に、本当におめでとうございます。どうか末永く、活動を続けてくださることを願っております。お二人の今後の御健康とますますの御活躍を、心よりお祈りいたします。

 

幕末志士が生きるには、この世界は汚れすぎているのだと思った。活動を辞めたほうが幸せになれると考えたことは、一体何度あるのだろう。どれだけの責任を抱えているのだろう。

9月1日、チャンネル開設が丁度3周年を迎えるこの日に、坂本さんは自身が改名するに至った経緯を視聴者に明かした。前記事で、坂本さんが西郷さんに改名の旨を伝えなかった理由を「伝える必要性がないから」だと勝手に予想していたが、おそらく真逆であった。きっと、西郷さんを心配させまいとした坂本さんの配慮だ。私が想像していた以上に、二人は(特に坂本さんは)生き辛い思いをしてきたのだろう。改名の理由が痛ましいことでなければいいな、と少し考えていたものの、そんなはずはなく。

 好きな人達が辛い思いをしているのは、すごく辛い。悔しいし、悲しいし、やるせない。K-POPアイドルグループ『SHINee』のジョンヒョンが自ら命を絶ったときのことを思い出した。私は高校生の頃から彼が大好きだった。けれどその訃報は、何の前触れもなく訪れてしまった。

結局、私たちは彼らの上澄みしか汲み取ることができない。ジョンヒョンが思い詰めていたことなんて、微塵も分からなかった。アイドルとしての綺麗な彼しか知らぬままだ。幕末志士はアイドルではないけれど、活動上で彼らの仲の良さ以外の側面が見えることは少ない。たった画面一枚隔てただけでつい麻痺してしまうが、ジョンヒョンも、幕末志士も、私が思っている以上に普通の人だった。普通に働き、普通にご飯を食べ、普通に悩んで生きている人たちだ。それに気付かぬファンが、超えてはならぬ一線を踏み越え、近付こうとしてしまうのだろうか。

私も、一端の視聴者の立場で二人の人となりをもっともらしく語って、はたして何を理解していたというのだろう。なんだか酷く間抜けだ。何をしてあげられるわけでもないが、無駄に自己嫌悪に陥ってしまう。

しかし彼らが活動を続けると決意してくれている以上、私も考えは変えたくない。一人でも多くの人に幕末志士を知ってほしい。幕末志士の動画を、関係を、生き様を知ってほしい。そして彼らが選んだ道を、いつまでも無条件に信じて応援していたい。視聴者としてのエゴはエゴのままだ。私には自分の中でのジンクスを守ることしかできないけど、きっとそれで良いのだと思う。